最近、ニュースを賑わせている自民党総裁選。
候補者同士が議論する中で、選択的夫婦別姓の取り扱いがトピックの一つとして挙げられていました。 その中で、今さらながら気づいたことがあります。
選択的夫婦別姓を希望する人々(私もその一人ですが)がこの制度を希望する理由は、大きく分けて以下の2つがあると思われます。
- 事務面・手続き面の負担 = 利便性の観点
- アイデンティティ = 自己同一性の観点
別姓制度の支持者が2つのグループに分かれる、という意味ではなく、個々人の中でこの2つの動機がミックスされている、という理解です。 これに対して、別姓制度に反対する人々の反論、というか代替案は、もっぱら1の利便性(の欠如)に対応したものだな、と思いました。 特に、反対派としてこの問題に取り組んできた高市早苗さんの議論に顕著でした。
遡って、利便性とアイデンティティ、これら2つの理由が別姓制度の支持者・当事者の内心に占める割合でいうと、平均では「利便性」の比重のほうが大きいのではないか、と想像しています。 「アイデンティティ」の比重が大きい人でも、夫婦同姓に反対意見を表明しようとしたら、不便さにまつわるストーリーの方が数多く出てくるのではないかと思います。
「選択的夫婦別姓」という手段としての制度改革目標が共通でも、実は最終的に解決しようとしてる課題が整理できていない、という状態が起きているのではないでしょうか。 反対派の人は、おそらくこれを認識した上で対案をつくっていると思います。 (それが狡い、という意味ではありません)
選択的夫婦別姓の推進者が本当に制度を実現したいのであれば、もっぱらアイデンティティに議論を集中し、利便性の課題の議論を一切許さない・相手にしない態度を堅持するのが重要ではないかと思いました。 通称利用じゃ何の解決にもならない、ということを言い続けなければならない。
アイデンティティの保護を究極的な課題として設定するならば、結婚した個人の姓の問題はもとより、婚外子や離婚後を含む子どもの姓の議論も、同じ熱量で行われているのが、一貫性の観点で望ましい、とも感じます。
名前を変える喪失感、その後の違和感は、おそらく姓が変わった直後が最も実感しやすい。 だんだんと歳をとるにつれて、変更後の姓に慣れていってしまう、ということもあるかもしれません。 長年の少子化および若年層の低い投票率が、前向きな意思決定により長い影を落としているのが選択的夫婦別姓制度だと言い換えることもできます。 社会保障制度改革のように、世代間のゼロサムゲームになってないだけ、まだマシなのかなあ。